臼田夜半(うすだよはん)さんのこと

親交のあった作家の臼田夜半さんが5月17日に亡くなられました。

これは、夜半さんを思い出して思わず書いたものです。

私文、そして超長文です。気が向いたら読んでね。

      

        

夜半さんとは不思議なご縁を頂いた。

思えばゆるい師弟関係のようだったとも思える。

                    

以前一緒に撮った写真をみて、

「たくこさんは息子のようですね、わたしがお母さんで。」

とおっしゃった。

前世に全く興味を持たないと話す夜半さんが話したこの言葉は、

過去生のある一場面をみていたのでは、と思えて、

そういうご縁なのかなとも思う。

         

治らない病を抱えていた夜半さんは、

「今日限りのいのちと思って、その日を生きているんです」

と話されていた。

明日の朝、目覚めないかもしれない、と、

遺影に使う写真をテーブルの上に置いて眠るのだと。

               

その写真は、笑顔をつくっているものの、

口元が引き締まり、少し緊張しているように見えた。

                 

その病を押しのけ、癌が発見されて、

そしてはっきりとその身体の限りが分かったのは昨年秋だったという。

その知らせを聞き、東京に行く用事に合わせて昨年12月雨の日に、鴨川の臼田邸を訪ねた。

         

何枚か撮らせてもらった写真の1枚が、我ながら素晴らしく撮れていて、

改めて夜半さんてイケメンだったんだ、若いころモテただろうな~と思った。

学生運動でそれどころじゃなかったかもしれないけれど。

表情が晴々としていて、病気なんて微塵も感じさせず、

夜半さんの魂を現していると思えた。

後日送ったその写真を夜半さんも気にいって下さり、

「遺影に使ってもいいかな。写真、用意しているけど、これ、いいよね」

とおっしゃっていた。

遺影としては5年間有効で、5年後にまた撮影します、

と話したけどその5年後の約束は、なくなってしまったな。

       

        

あの雨の日にたくさん話をした中で、香港の情勢の話をされていて、

「元気だったら学生たちに火炎瓶の作り方を教えてあげたい。

頭のいい学生たちなのに、なんであんな作り方なんだ。

落下途中で暴発するんじゃなく、

ちゃんと、安全な(笑、そんなのあるのかな)火炎瓶の作り方があるのに」

と息巻いていて、ホントに現役に炎の人だと思った。

       

           

夜半さんをはじめて知ったのはヒルデガルトの事を書いたものからだった。

「ヒルデガルトの判断の基準は甘いか苦いか、である」

とあった。

甘いと感じるものは、進んでいい事、必要な事、苦いと感じる事はいらない事、進まなくていい事。

(夜半さんはこういう風には書いていなかったけど。)

中世の修道女のお話は、あっさりと900年の時を超えて響いてきた。、

          

その文章の湿度の高さに、

最初わたしは「臼田夜半」と言う人は、しっとりとした女性なのだと勘違いしてしまった。

読み方も、「うすだやはん」さんと思っていたのだが

「うすだよはん」さんだった。

クリスチャンである夜半さんは洗礼のときにヨハンという名前を頂いたのだという。

           

「神は祈るもので、お願いする対象ではない。」

とおっしゃり、

「だから、わたしはヒルデガルトにわたしはこう思う、と話しているんです。」

と、続けた。

それを聞いたヒルデガルトが神に話すだろう、というのである。

えー。そんな手があるのか!と思った。

なんか笑ってしまった。

「わたしもヒルデガルトに話しますね」と思わず、言った。

本来わたしはまどろっこしくなく、神様に頼むひとだけど、

この時はヒルデガルトに向かって話した。

            

         

2年前に岩手での夜半さんのヒルデガルトのセミナーを企画したとき、

「会場は『たまくさ』さんで」と言って下さった。

今でこそ、自宅で様々なイベントを開催しているけれど、

当時は交通の不便な我が家で開催する事に、ものすごくためらいがあった。

人数が集まるのかどうか。

けれど

「たくこさんのその場は、人の集うプラットホームになりますよ」

と言って下さり、ここで開催する事にしたのだった。

      

          

夜半さんにはまた、

「たくこさん、本当にひとを愛した事がありますか」

と唐突に聞かれたことがある。苦笑。

そのとき、わたしはめんくらい、

「えーと、その都度、

のぼせていましたけど、、、どうなんでしょうか」

と、全くいまいちの答えしか返せなかった。

       

この問いは、時々なんの前触れもなく思い出されて、

その都度、どうだったのだろう、と思うのだ。

               

今日、ふと思った。自分をちゃんと大切にすることが出来てこそ、

誰かを愛する事に深さを持つのでは、と。

愛するとは自分を大切にすることと同じ浸透圧で相手に交わる事なんじゃないかな。

そうなっていた、そうしたいと思っていた関係性も、確かにあったと思う。

(答えになっているかなー)

           

例え上手くいかない関係性も、自分を大事にしていれば、

傷ついても嫌な感情にはならない。

例え上手くいかない関係性も、自分を大事にしていれば、

傷ついても嫌な感情にはならない。

相手への怒りは、偽った自分への怒りの変換なのかもしれない。

自分をまず大切にすることは、誰かを大切にしなかったり不誠実であったりという事につながらない。

イコールではない。

けれどその危険性も、あるのだ。

そして、まるで同じ水の中で息をするように境目がなく、

自分を愛するように誰かを愛しむ事が出来たとしたら、

夜半さんのいう本当に人を愛したことになるのかな、と今思う。

と、思ったらすっきりした。

          

この問いは、夜半さんが書かれた小説、「ネロの木靴」を推敲していたときに発せられた。

「ネロの木靴」のあとがきに、夜半さんが記した言葉を、読み返した。

以下抜粋。

       

========

           

考えてみれば、わたしたちは、魂と魂の交わりの発する沈黙のことば

――ことば以前のことばで語り合えることを、本当の恋の中で、実は誰もが経験しているのですね。

本当に人を愛したときには、自分の愛のほど、自分の愛の深さを、ことばで説明することはありません。

そのときわたしたちは、互いの魂の姿を見、魂と魂として向き合っているからです。

愛は魂の在り処を証します。だから、魂のことばを感じ取れるかどうかは、

実はその人が本当に人を愛したことがあるかどうか、という問いでもあるのですね。

でもわたしたち大人は、かつてそういう瞬間があったことすら、忘れてしまっているのです。

        

==============

      

そういう問いをもって、わたしに問うたのだと改めて思った。

そういう意味では魂のことばを感じ取れるという域に、達したことがあるか、というと、

その自信はない・・・

    

     

一見穏やかな夜半さんは怒りの人でもあった。

(その手の話で平行線になったこともあった。)

いのちをないがしろにする事に対して、ほんとうに怒っていた。

激動の人生の中で、いのちと愛にかかわる経験と想いが、怒りという表現を作っていったのかもしれない。

そして、その怒りはもしかしたらご自分にも向けられていたのではないのかとも思う。

          

      

夜半さんはわたしに深い印象を残して下さった。

まだ何かご一緒に出来たのに、という想いがあるけれど、

最期は満たされて逝かれたように、なんとなく思っている。

解き放たれて、今呼吸が楽になり、あたたかくすべてのいのちを見つめているように、思う。

           

ご縁を、ありがとうございました。

        

ちなみに、亡くなられたのは5月17日。

17という数字はわたしのラッキーナンバーなのだ。

そういう事も、なんだかご縁と感じてしまうのである。

       

これは夜半さんに対する一方的な弔辞でもあります。


臼田夜半氏著作

『病という神秘』(教友社)

『ネロの木靴』(地湧社)

『聖ヒルデガルトの病因と治療』(ポット出版)

「聖ヒルデガルトの『病因と治療』を読む」(ポット出版)

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